歴史を愉しむ

2020年09月09日

県立歴史博物館で「加賀藩の文芸文化」

久しぶりに県立歴史博物館に行って来ました。

IMGP1506

「加賀藩の文芸文化」という企画展示をしていました。
加賀藩には、こんな文芸の文化があったのか、という興味をそそられる内容で、見応えがありました。

IMGP1488

見終わって、休憩スペースで、ひと休み。
正面に桜の木があり、春には、さぞ素晴らしい眺めだろうと思いました。

IMGP1498








Comments(0)

2020年09月08日

前田土佐守家の屋敷跡

先日、玉川図書館の近くを歩いていたら、前田土佐守家の屋敷跡を発見(?)しました。
「このあたり」という漠然とした場所は分かっていたのですが、具体的な場所は知らなかったのです。
それが金沢市の表示看板まであるではありませんか!

IMGP1512a

その表示看板は、瀟洒なマンションの横に、ひっそりと立っていました。

「加賀八家 前田家(直之系)屋敷跡」という表示があります。

IMGP1508


八家(はっか)というのは、加賀藩の年寄(家老)の職にあたる門閥のことです。
元禄3年(1690年)、5代藩主前田綱紀が定めたもので、
本多家 5万石、長家 3万3000石、横山家 3万石、前田家(長種系)1万8000石、
奥村家(宗家)1万7000石、村井家 1万6569石、奥村家(支家)1万2000石、
前田家(直之系)1万1000石 があったそうです。
前田家(直之系)が現在、前田土佐守家と呼ばれていて、長町に前田土佐守家資料館があります。

地図によると、屋敷の西側に、長家(現玉川公園)があり、その南側に、村井家(現中央小学校)があります。

玉川公園に行ってみました。

IMGP1514a

市民の憩いの場所になっています。
公園の片隅に、表示看板が立っています。

IMGP1515a

「長家屋敷跡」となっています。
玉川図書館で本を読んで、疲れたら、玉川公園に来て、加賀八家の前田家(直之系)や長家の屋敷が立ち並んでいた時代に思いを馳せてみるのもいいかも知れません。



Comments(0)

2012年12月08日

「寺島蔵人の文書を読む」第4回

このところ、猛烈に寒く、強風の日が多いですね。
先日(12月7日)、 「寺島蔵人の文書を読む」という講座の第4回を聞きに、出かけて来ました。
県立美術館広坂別館の庭は、ごらんのとおり、うっすらと雪におおわれています。
IMGP1174

















IMGP1176

















講師は、おなじみ、長山直治さんです。
古文書の解読が始まる前に、余談があり、これに興味を惹かれました。
先日の新聞に、「兼六園の名付け親は、白河藩主・松平定信である」との定説をひっくり返す古文書が発見されたとの記事が出ていたことが話題になりました。
記事によると、金沢の渡邊金雄さん夫妻が定信の日記「花月日記」 を調べたところ、定信が「兼六とはどういう意味か、尋ねにやった」との記述があり、定信が名付けたものではないと結論付けたとのことです。
これについて、長山さんは「根気良く調べたたまものですね」と評価をされておられました。

古文書のほうは、寺島蔵人が役職を解かれ、逼塞を命じられた経緯を記した文書を解読してもらいました。
雪が降る寒い日だったのに、会場いっぱいの熱心な受講者・・・。正直、驚きました。



Comments(0)TrackBack(0)

2012年06月02日

「江戸勤番藩士の生活」

「江戸勤番藩士の生活」

5月31日(木)、「幕末加賀藩士の江戸勤番生活」という講座の第2回「江戸勤番藩士の生活」があったので、行ってきました。
講師は、『加賀藩御算用者猪山直之日記』でおなじみの石崎建治さんです。
江戸時代、江戸の藩邸ではどのくらいの費用がかかっていたのか。石崎建治さんによると、加賀藩では総予算10300貫のうち、江戸の経費が6000貫で、実に6割も江戸で使ってしまう状態だということです。他藩でも荘内藩では約8割にも達したという。
石崎さんは、いろいろな記録によると、江戸詰めの生活は苦しく、藩士にとって江戸勤番はありがたくなかったのではないかと話しておられました。

d0043136_2032995
加賀藩江戸上屋敷跡(現・東京大学本郷キャンパス)





Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月29日

「加賀藩江戸藩邸の概要」

「加賀藩江戸藩邸の概要」

北國新聞文化センターの講座 『続・加賀藩から石川県へ』が始まり、きょう(3月29日) は「加賀藩江戸藩邸の概要」を聴いてきました。
会場は、旧制四高の赤レンガ校舎で、今は石川四高記念文化交流館となっています。

講師は石崎建治さん(金沢学院大学文学部准教授)です。
「幕末加賀藩士の江戸勤番生活」 (3回シリーズ)の第1回で、加賀藩上屋敷の変遷、「御殿空間」、「詰人空間」の概要、発掘の成果から見る藩邸生活などについてのお話でした。

加賀藩の上屋敷は当初は江戸城に近い辰口邸でしたが、その後、火災にあい、筋違邸、本郷邸と変遷します。
安政3年(1856年)の記録では、
①本郷上屋敷 (10万3000坪)
②駒込中屋敷 (2万坪)
③板橋下屋敷 (21万7000坪)
④深川蔵屋敷 (2000坪)
があったそうです。


img279
加賀藩本郷邸(上屋敷)

21万坪を超える広大な板橋の下屋敷には、池や竹林、舟小屋、畑などがあり、藩主が息抜きの場所として使っていたようです。

img280
加賀藩板橋邸(下屋敷)

今は東大本郷キャンパスとなっている本郷邸の発掘調査では、さまざまな出土品が出ており、藩主や藩士の生活ぶりの一端がしのばれるということです。





Comments(0)TrackBack(0)

2012年03月21日

寺島蔵人の文書を読む

寺島蔵人の文書を読む

きょう、「 寺島蔵人の文書を読む 」という勉強会が県立美術館別館であり、参加して来ました。
講師は、長山直治さん。『寺島蔵人と加賀藩政―化政天保期の百万石群像―』という著書もある人で、寺島蔵人研究の第一人者です。

img269

長山直治 『寺島蔵人と加賀藩政―化政天保期の百万石群像―』 (桂書房)

寺島蔵人については、昭和57年に若林喜三郎監修『島もの語り―寺島蔵人能登島流刑日記―』(北国出版社)が刊行され、さらに昭和60年には、 若林喜三郎監修『続 島もの語り―寺島蔵人流刑地能登島からの手紙―』(北国出版社)が刊行されています。

img270

若林喜三郎監修『島もの語り―寺島蔵人能登島流刑日記―』(北国出版社)

長山さんは、寺島蔵人が藩政批判をとがめられて、能登島に流刑となった時の「申し渡し書」と、能登島から金沢の家族に送った手紙などを解読しながら、お話をされました。
特に、妻のとしに宛てた手紙は、愛情あふれる内容で、ほろりとさせられました。

それにしても、いつもながら、古文書を解読するのはほんとに難しいなと痛感します。









Comments(0)

2012年01月30日

「木曽義仲と北陸道の合戦」

「木曽義仲と北陸道の合戦」
雪の中、歩いて大乗寺坂へ。ここは、その昔、曹洞宗の大乗寺があったので、その名がついたといわれます。
IMGP0949

大乗寺坂の途中で、振り返ると、金沢の街が下に広がっています。景観は生育した木立ちのために少しさえぎられていますが、昔なら、きっと素晴らしい眺めだったと思われます。
IMGP0955

坂を上がりきると、石川県本多の森庁舎。以前、石川厚生年金会館だったところ。
IMGP0958

県民大学校記念講演で、金沢学院大学教授の東四柳史明さんの「木曽義仲と北陸道の合戦」というお話を聴きました。
『吾妻鏡』や公家日記をもとに、義仲の上洛作戦をたどる内容でしたが、義仲は上洛途上の戦いがあまりにもうまく進んだために、「原点」を見失ったのではないか、という見方が印象に残りました。




Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月22日

「江戸時代のお金の話」

「江戸時代のお金の話」

1月21日(土)、「江戸時代のお金の話」という講演会があったので、行って来ました。場所は、金沢・広坂の四高記念交流館。
講師は、金沢市の観光ボランティアガイド「まいどさん」の武野一雄さん 。あの難関の第1回金沢検定上級に合格した方です。
お話は、江戸時代の1両は今の貨幣価値でいくらなのか、ということを中心にお話をして頂きました。
ところで、慶長小判は金が85%もあったのに、元禄小判は金が56%になりました。これは慶長小判2枚をつぶして、元禄小判3枚をつくったためで、幕府は大もうけしたそうです。
こちら、慶長小判。
320px-Keicho-koban
こちらは、元禄小判。
320px-Genroku-koban


江戸時代のお金は、金、銀、銭の「三貨制」で、公定では、1両=銀60匁=4000文(4貫文)ですが、変動相場でした。 今から200年前ぐらいの1両は、約10万円だそうです。 かけ蕎麦1杯の値段が16文。現代、駅の立ち食いそばの値段は250円前後が多いそうで、これで計算すると、約10万円になるようです。 「1両は10万円」と覚えておけば、分かりやすいですね。

Comments(0)TrackBack(0)

2011年11月08日

加越国境の城郭群を行く

   加越国境の城郭群を行く

石川と富山の県境に近い松根城跡と切山城跡の研修バスに参加して来ました。

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が天下統一をめぐってぶつかった「小牧・長久手の戦い」が勃発しました。
北陸では、それに連動して、秀吉方の前田利家と家康方の佐々成政が加賀越中国境付近で対峙する形となり、双方が多くの山城を築いてにらみ合ったのです。
加賀・越中国境付近にある多くの山城には、こうした背景があったのですね。

JR金沢駅西口をバスで出発した一行は、山の方に向かい、まず切山城跡に到着しました。
現場では、金沢市埋蔵文化財センターの職員の方に説明をして頂きました。
IMGP0595

切山城は、加賀から越中に向かう小原越(おはらごえ)という街道沿いにあり、前田利家軍が拠点としていました。
標高は139メートル、城の南北は250メートル、東西200メートルです。
切山城の主郭と見られる場所です。
IMGP0593

現場では、きょうから発掘調査が始まっていました。
現場の遺構は、16世紀後半と見られていますが、これを裏付けるようなものが出土しないか、注目されています。

IMGP0582

切山城跡の遺構測量図です。
img208a


次いで、松根城跡に向かいました。昭和49年3月に、金沢市史跡に指定されています。
こちらは、佐々成政側の拠点です。
標高は308メートル、城の東西は140メートル、南北は440メートルです。
IMGP0619

本丸からの眺望は素晴らしく、富山県の小矢部市などが眺められます。
IMGP0634

一方、石川県側を見れば、内灘町や河北潟、金沢の県庁なども見えます。
IMGP0620

松根城跡の遺構測量図です。
img204a
加賀・越中の国境にはこのほか、二俣越という街道に高峠城跡(前田方)と荒山城跡(佐々方)、田近越という街道に朝日山城跡(前田方)と一乗寺城跡(佐々方)などがあり、にらみ合っていましたが、天正13年8月、羽柴秀吉が越中に出陣し、佐々成政が降伏して、決着しました。このあと、越中の西半分が前田利家の長男・利長に与えられたことで、加賀越中国境の緊張状態は解消され、城郭群は不要になったのだそうです。

ところで、今回の発掘調査は、切山城跡、松根城跡、小原越を含む「加越国境城郭群」を国の史跡にしようという動きの一環だそうです。
そういうことも考え合わせ、今回の発掘調査の結果が期待されますね。





Comments(0)TrackBack(0)

2011年10月30日

世阿弥の「風姿花伝」

世阿弥の「風姿花伝」について

「世阿弥の『風姿花伝』を読む」という講座を聴いて来ました。金沢能楽美術館館長の藤島秀隆さんのお話です。きょうは第2回で、藤島さんは、花伝の第六あたりについてお話をされました。

世阿弥は能の本を書くことについての心構えなどを語っています。
「良い能というのは、素材の典拠がはっきりしたもので、曲がらに珍しさがあり、眼目となる急所も備え、全体のおもむきが優雅なものを最上とすべきである。……」
噛んで含めるような言い回しで、多くの示唆に富んだものでした。

rekishi_hito03

織田信長が自ら好んで舞ったという幸若舞「敦盛」の一節。

   人間五十年、化天(けてん)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
   一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。



 

Comments(0)TrackBack(0)

2010年11月02日

映画「桜田門外ノ変」を観る

先日、ユナイテッド・シネマで、「桜田門外ノ変」を観て来ました。
100701_smg_sub1

この映画、桜田門周辺を再現するため、水戸市に東京ドームと同じ面積のオープンロケセットを作ったそうです。その費用、2億5000万円とか。
映画は、吉村昭の小説「桜田門外の変」が原作。
今から150年前、時の大老・井伊直弼が水戸藩脱藩浪士らに襲撃され、暗殺された「桜田門外の変」を関鉄之介という人物を中心に描いています。
100701_smg_sub4

特に井伊大老襲撃のシーンは圧巻で、息もできない迫力を感じる場面の連続です。
時代物の好きな方には、一見の価値がありますよ。 

 
映画「桜田門外ノ変」を紹介する Cinemacafe.net はこちら。
http://www.cinemacafe.net/movies/cgi/22755/# 

Comments(0)TrackBack(0)

2010年10月31日

「加賀騒動」の講演会

10月30日(土)、「加賀騒動」の講演会が泉野図書館でありました。
 IMG_3235


講師は、去年6月、加賀騒動を題材に「真如院の怨霊」という小説を出版した正見巌さんです。
IMG_3238

加賀騒動は、大槻朝元、真如院らの新興勢力と前田土佐守直躬、善良院、青地礼幹らの旧勢力の戦いであったという解説で、興味深いものでした。

IMG_3239

海音寺潮五郎の「列藩騒動録」 や若林喜三郎の「加賀騒動」が土佐守の謀略だったという立場をとっているそうです。
最近、加賀騒動を描いたものといえば、諸田玲子の「炎天の雪」があり、この時代は作家の想像力をかきたてるようですね。
 

Comments(0)TrackBack(0)

2010年10月23日

「武士の家計簿」シンポ その2

「武士の家計簿とその時代」と題する金沢学院大学のリレーシンポジウム その第2回「百万石城下 金沢の暮し」に行って来ました。

コーディネーターは金沢学院大学の見瀬和雄教授、パネリストは石崎建治准教授、馬場先恵子教授ら4人で、加賀藩の御算用者だった猪山直之が生きた時代について、それぞれの立場から、いろいろとお話を伺いました。

猪山直之が犀川近くの家から御算用場まで通った道筋、金沢の祝祭、「盆正月」の模様、武士の屋敷の規模など、興味深い内容でした。

img036

img035

映画「武士の家計簿」 への興味がますます湧いてきました。
img037

石崎建治さんの著書「猪山直之日記」 (時鐘舎新書)が会場の売り場に並んでいたので、さっそく買い求めました。
10月25日発行なので、ほっかほかです。
img038

これを読むのが楽しみです。 
 

Comments(0)TrackBack(0)